中島 康晴のコラム・バックナンバー
トレーディングカード(1999年7月13日掲載)
ちょっと前から「トレーディングカード」なるものにはまっている。まあ、昔でいうと野球チームチップスやビックリマンチョコみたいなもので、コレクションを目的とした、一袋約300円前後で数枚のカードが入って売っているものだ。これは本来、「トレーディング=交換」する事によって全てのカードを集めるものなのだが、大人の悲しい性というやつで、まとめて買ってしまうのだ。いわゆる箱で買ってしまうというやつ。そんなこんなで、給料はおもしろいように羽がはえて飛んでゆく、お金がすぐになくなる、親兄弟に生活費を借りる、給料日になり借金を返す、またカードをまとめて買う、お金が無くなる、借金、返済……と、悪循環この上ない。
いったいだれがこんなものを考えたのだろう。それよりも、そんなものに貴重なお金をつぎ込む自分にも腹が立つ。でも、やめられないんですよねぇ。あぁ、来月は知人の結婚式があるんだよなぁ。どこかに「お金のなる木」はないのだろうか?

 

ことば(1999年8月3日掲載)
「言葉」というものは難しいもので、文章として目から入ってくる場合と、音声として耳から入ってくるものとでは受け取り方が違ってくる。たとえば、笑いながら「バカ」と言ったとしよう。笑いながらだから相手は「あぁ、ちょっとした冗談なんだな」と、それほど悪い印象を受けない。これが、ただ文章として「バカ」と書かれ
ているだけだと、はたして本当に「バカ」という意味で書かれているのか、冗談として書かれているのか分からない。そのため、文章の後ろに『(笑)』と書いてみたり、絵文字をつけたりと視覚的に笑いながら、冗談めかしてこの言葉を使っているということを、相手に分かってもらおうとする。これは、受け取る相手がこれらの意味を理解していなければいけないことが前提条件となる。


人間同士のコミュニケーションとして、文章だけでは伝えられることに限界を感じてしまうときが、たまにある。なんとかして文章だけではつたえることのできないものを、無くしたいと思ったりする今日この頃だ。

 

疲れ(1999年8月16日掲載)
とてつもなく疲れたとき、寝てしまえば次の日には元気いっぱい、と思っていたが、そうでもない。年を重ねるにつれて体力の回復に時間がかかるようだ。困ったものである。幼い日には一日中町中を駆けめぐって疲れたとしても、寝てしまえば次の日も全力で駆け回ることが出来たのに。

しかし、心の疲れというやつは、いくつになっても同じで、好きなことや楽しいことをしていると、つらかったことやストレスをすぐに忘れさせてくれる。最近はなにやら「癒し」という言葉をいろいろなところで耳にするが、アロマテラピーや環境音楽なんかに頼らなくとも、人は好きなことに没頭しているときに自然と心が癒されているのではないだろうか。好きだから時間を忘れて取り組める。好きだからそのことで心がいっぱいになる。昨今はやりの「癒し」グッズに頼るより、よほど効果が期待できるはずだ。

ひとそれぞれに様々な疲れがあり、同時に様々な癒しがある。でも、癒しが必要とされている現代社会っていうのはいただけない。もっともっと住み易い世の中を作れば「癒し」なんか必要なくなるのだが。

 

ことば(1999年9月1日掲載)
いま、爆発的なインターネット普及と発達によって、ここのサイトのように声を送ることもできるようになったが、昔まだインターネットが普及していなかった頃は、パソコン通信では文字のやりとりしかできなかったようだ(私はその当時のことが分からないので、もしかしたら音声もおくれていたのかもしれないが……)。

文字だけというのは不便なもので、声と違い細やかな感情を伝えることができなかった。そんなわけだから、顔文字というものができ、あっという間に広がり、インターネット全盛の今もいろいろな掲示板やチャット、メールで見かける。誰が考え出したものかは知らないが、大した発明だと思う。しかし、日本には古来から文章の美しさを究極にまで高めた「俳句」や「短歌」というものがある。わずか数十字のなかに四季折々に移り変わる自然の美しさや、恋しい人に思いを伝えられないもどかしい心模様などをつづるという、世界に類を見ないすばらしい文章表現法がある。

別に顔文字が悪いとは言わないが、せっかく短歌や俳句のある国に生まれたのだから、美しい日本語を最大限に活用して、文章だけで自分の感情を相手に伝えたいものだ。

 

モノを集める(1999年9月13日掲載)
私には収集癖がある。本であれ、CDであれ自分で買ったものを捨てることができないのだ。おかげで私の部屋はモノであふれ、寝る場所をようやく確保できる程度しか空いているスペースがない。本人はそれで満足しているのだが、周りの人間にとっては単なるゴミの山、香港の九龍城を彷彿とさせるらしい。

知り合いに聞いた話だが、片づけるのが上手な人というのは、何でも捨てられる人のことらしい。たとえば、UFOキャッチャーで人形を取ったとしても、数日したら捨ててしまうそうだ。どうやら、UFOキャッチャーをするという行為が楽しいわけで、人形はその付属品、楽しい思い出だけが心に残ればそれで良し、で、人形はポイ。そういうことらしい。別に私は迷信を信じているわけではないのだが、「目」のある人形は捨てることができない。もちろん前述の収集癖も手伝って、絶対に捨てることができない。

モノを集めるという行為は、それを収納するスペースを持つ者だけに許された、いろんな意味でお金のかかる趣味だと思う。はぁ、宝くじでも当たってくれれば……。

 

賭事について(1999年9月29日掲載)
一応、我が日本では賭事は競馬など公営のものをのぞいて禁止とされている。パチンコはなんだ、あれもギャンブルじゃないか、と思われる方もいるだろうが、あれはパチンコで勝った玉をそのまま現金へと換金せず、特殊景品というものと交換し、それを買い取ってもらうという形を取っているので、とりあえずギャンブルではないのだ。それはともかく、そんな日本にありながら、それでも賭事をしたい人はごまんといるようで、たまに違法賭博が摘発されたというニュースを見ることがある。なぜ、人は賭事がしたいのだろう。

手っ取り早く金が儲かるから、という人もいるだろう。明日には一文無しになるかもしれない、そんなリスクと隣り合わせというスリルに興奮する人もいるだろう。実際にギャンブルが解禁になっている国も少なくない。たしか、地中海に面したモナコという国は、国家の収入のなかにカジノからの収益があったと思う。私的には、ギャンブルが解禁になってもいいと思っている。日本では習慣性があるからダメだということになっているそうだが(他にもいろいろと理由はあるのだろうが)、ドラッグと違い生理的に習慣性を帯びるのでなく、やめさせようと思えば、何とかなると思うし、結局自分の意志で選んでやっているのだから、多少のリスクは覚悟するのが当然だと思うわけ。それに、少なくとも勝とうと思うのなら、頭を使わなければいけないわけ
だし、知力を使った大人の遊びと割り切って、ちゃんとした法制度の元に行えば、日本の財源赤字も無くなるのでは……。

 

風邪と人(1999年10月20日掲載)
風邪をひいたらしい。鼻水が止まらない。いつも風邪をひいてから思うのだが、一体どこからもらってきたのだろうか、と。

自分のそれまでの生活をつらつらと思い返してみると、けっこういろんな人とふれあっている時間が多いことに気がつく。自宅から会社までの通勤途中ですれ違う人たち、そして会社で出会う人、昼食を食べに行けば、いった先の店員さん。小さい子供から腰の曲がった老人まで、年齢も性別もさまざまの人たちが、自分の周りで自分とは全然違う生活を営んでいるのだ。たまに昔の知り合いと出会ったりもするわけで、つくづくこの大都会東京というところは、広いようで狭いものだなと思う。

それにしても、一体誰が私に風邪をうつしたのだろう?

 

片づける(1999年11月10日掲載)
部屋が異常に汚くなってきた。片づける時間を作ればいいのだが、休日になると、どうしても出かけてしまったりしている。 別に自分が良ければそれでいいのかもしれないが、やはり何があるか分からない世の中。ボーイスカウトではないが「備えよ常に」の精神で片づけなくては。

とはいうものの、片づけるものが多くなるとやる気がそれに反比例してしまう。こんなことならものが増える前にやっておけば良かった、と思うことしきり。 以前のコラムにも書いたのだが、片づけ上手の人は何でも捨てられるそうだ。ものに対する執着より、そのものがあったという思い出があればいいのだそうだが……。

 思い出にしても、自分の頭の中にそういくつも仕舞っておけるわけがないし。そうすると、片づけ上手は限られた脳の容量をうまい具合に使うということから始めなければならないのかなと思う。

 

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