香月良太のコラム・バックナンバー
「青色」(1999年7月1日掲載)
nz_busstop.jpg (15595 バイト)「トータルイメージ・デザイナー」を担当する香月です。ホームページのデザインが主な仕事なので、いわばRJCの顔を作る重要なパートになります。専門の勉強をしたわけではありませんが、とにかく、見栄えの良いホームページを作りたいと思っています。ホームページのデザインに関連して、今回は「色」について話しましょう。

このホームページの基調にした色は「青色」です。テキスト、背景色などを含めて、青色とそれに調和する色(緑や白)で全てまとめています。では、なぜ青色か? まず第一に、そんなにギトギトしない色だということ。赤などの暖色系に比べて、青色はそんなに強烈な印象は与えません。第二に、清潔感を感じさせる色だということ。作者自身のイメージは別として、青色やそれに調和する色は爽やかさや清らかさを与える色です。第三に、作者が一番好きな色だということ。この要素が実は一番大きいのです。

昔から派手な色はあまり好みではなく、青系の色が大好きだったと思います。小さい頃に描いた絵も、空や森の比率が高かったように記憶しています。理由はともかく、赤などの派手な色は自分には似合わないような気がするのです。ホームページのデザインでも、別に派手な色を毛嫌いしているわけではありませんが(事実、ワンポイントで赤を積極的に使っています)、どうしても青系の色を前面に押し出してしまいます。こうなると「好きな色=青」というのは、半ば潜在的なものであるかもしれません。

さて、青色にもたくさんの種類があるわけですが、私が一番好きな青色をご紹介しましょう。それは、大学の研修でニュージーランドに行ったときに見た空の色です。「空の色」というと水色のような白の強い色を思い浮かべますが、ここで見てきた空の色は未知のものでした。「空色」というよりも「成層圏色」と表現した方が良いぐらいの鮮烈な青だったのです(カットの写真です)。私は後にも先にも、この色を超える青を見たことがありません。

 

哀しき運命(1999年7月19日掲載)
最近「食べ物屋」運というのに恵まれている。要するに、味や雰囲気など全ての点において「おいしい店」に当たる確率が多い、ということである。ここ1ヶ月での大当たりは、家族に連れられて行った「どぜう鍋」と、仕事先の先輩に連れられて行った焼肉屋である。

どぜう鍋、そもそもドジョウ自体初めて食べたのだが、思っていた以上にあっさりとしていて、しかも臭みや苦みなども全くない、予想を大きく裏切った味だった(もっと泥臭くて、ハラワタの味がするものだと思っていた)。後で調べて解ったのだが、ドジョウは今の時期が旬なのだそうだ。

後者の焼肉屋は雰囲気としては普通の食堂、どちらかというとガード下の飲み屋といった感じだった。しかし、そこで出てくる品々はメインの焼肉はもちろん、サイドオーダーのキムチ類や臓物の刺身に至るまで、嬉しくて涙が滲む逸品揃い。さりげなくも自信に満ち溢れた手作りの味、という感覚がした。

さて、こういった大当たりの店に行くといつも残念に思うことがある。それは、私自身、酒が苦手だということである。別に酒が嫌いなわけではない。酒は好きだし、酒を飲む雰囲気も好きだ。ただ、弱いのである。下戸なのである。一定量(しかもかなり少ない水準)飲むと寝てしまうのである。普通の生活では別段困ったことではないが、おいしい料理を食べながら、おいしい酒を飲む、という至福を満足に味わえないのである。だからといって、どぜう鍋にウーロン茶、焼肉にウーロンハイ(ウーロン茶9.5に対して焼酎0.5)では芸がない。反対に飲み過ぎて寝てしまうと肝心の料理が味わえない。かくて私はディレンマに陥るわけなのだ。

以前聞いた話によると、酒が強いか弱いかというのは、DNAの塩基配列のたった一つが異なるだけで決まるのだそうである。だとすれば、私は「おいしい店」に出会う度に、このミクロ単位の哀しき運命を呪わなければならないだろう。

 

整理整頓(1999年8月9日掲載)
私は、整理整頓が苦手だ。資料や雑誌・新聞のスクラップを分類して、キチッと整理、というようなことが出来ない。資料、スクラップはこまめに取っておく方なのだが、それを整理することをまるでしないのである。分類用の書類立てなどを買ってきても、いつの間にやら、プライベートの手紙と仕事の資料がゴチャゴチャになっていたりする。それではいけないと思って、先日、少し机周りの片づけをした。すると……出るわ出るわ「あれっ、無くしちゃった!?」と思っていた書類の数々が……。古いものでは大学の講義のレジュメ、高校時代にもらった年賀状まで見つかったのだから、つくづく自分の大雑把加減を思い知らされたのである。

しかし、資料以外にも整理整頓されていないものが見つかった。それはインターネット・ブラウザの「お気に入り」の項目である。一度クリックしてみると、百件近くのリンク先がズラズラッと表示されてしまう(表示するまでに時間もかかる)。ジャンル別に分けるべきなのだろうが、何しろ私の見るホームページというのは「ジャンル分類不能」とページがかなり多い(もちろん、すぐに分類できるページもある。どんなジャンルなのかは割愛)。一応、例えば「検索エンジン」「友人関係」などとジャンル分けはしてみたものの、それでもまだすっきりとしない。

どうも整理整頓の能力に欠けている人間は、ネットワークの世界でも苦労をするようである。

 

子供の表情(1999年8月24日掲載)
私が現在働いている職場は子供たちと接する機会というのが非常に多い。一日に数え切れないほどの人物と接することが必要となる仕事なので、一人一人の子供たちとじっくりとコミュニケーションをとるといったことは出来ないが、たとえ数秒、数十秒といった短い時間であっても、子供たちの様子を垣間見るのはなかなか楽しいものである。

特に赤ちゃんから2、3歳ぐらいの子供の表情というのは面白い。彼らはまだ人生が始まったばかりなので、おそらく外界の物事の殆どが初めてのものに違いない。それが、表情に出ているのである。目を見開いて、あっちこっちに動かして、時折「あれ? これは何だろう?」というような素振りを見せる。自分が興味を示したものには声をあげたり、指を差したりして反応し、逃れたい対象からは目を背けたり、泣き出したりする。その素直な好奇心というのが面白いのである。

そんな表情は、年齢が上がるに連れ、(私自身も含め)段々と薄らいでいくと感じるのは否めない。月日を重ねると同時に、経験を重ね、好奇心の対象が「当たり前のこと」に変化するのだから仕方がないことだろう。ある意味、そういったことを「成長」というのかもしれない。だが、最近の子供というのはその「成長」がかなり早い時期に訪れている気がする。まだ夢中になって遊び回ってもいい年齢の子供なのに、変に大人びた顔、それなのに視線はどこを向いているか解らず、口はなぜか半開き……表情を失ってしまった子供が多すぎる。

 

大顔展に行ってきた(1999年9月6日掲載)
現在、東京・上野の国立科学博物館で開催中の「大顔展」に行ってきました。「どうして人間には顔があるのか」「人間の進化に連れ、表情はどのように進歩してきたのか」「表情のメカニズム」など、視覚に訴える展示物が多く、楽しみながら学ぶという言葉がピッタリとくる内容です。

圧巻はライフマスク、デスマスクのコレクション展示でしょうか。要するに、教科書でしか見たことのない歴史上の偉人の顔を、ある意味直接見ることができるわけです。ワシントン、リンカーン、フランクリン、ニュートン、ナポレオン、ゲーテ、デカルト(頭骨と、そこから復元した胸像を展示)等々の顔が、同じ場所にズラーッと並んでいるのを見ると、得したような、贅沢な気持ちになってしまいます。しばらくその「面々」とにらめっこをしていると「あ、フランクリンって結構顔が長いぞ」「ナポレオンって意外と鼻が高かったんだな」と、全く学術的でない事に感心したり出来ます(香月だけ?)。資料によると、こういった顔の型を取るときは石膏などを使っていたのだそうですが、デスマスクはともかく、ライフマスクで型取りするときは、呼吸用に鼻の穴にストローを突っ込んでいたのだそうです。それでも、型取りされている当人には苦しい作業だったようで、ライフマスクを取ったワシントンは、危うく窒息しかかったらしい……鼻の穴にストローを突っ込んで、苦しそうにしているワシントン……教科書には絶対書かれないわな。

「大顔展」は10月17日(日)までの開催。女性の方には化粧、メイクについての学術的な分析もありますので、そちらも興味深いのではないかと思います。

 

企画作りの実際[香月の場合](1999年9月20日掲載)
このRJCのホームページで必要不可欠なもの、当然それは「番組」です。インターネットラジオ放送局と銘打っている以上は、番組が存在しなければお話になりません。今回は、その番組制作の基本、企画についての話題を。

番組を作るに当たってまず必要となるもの、それは「企画」です。RJCでは事前に企画書を提出し、その内容を検討することになっていますので、この作業は番組作りの第一歩として重要なものです。ここで企画を綿密に検討すれば、これから番組として形にするときにかなり楽になる、ということも言えます。


番組のコンセプトや具体的な内容を頭の中で創り上げて、企画書の形にしていくのですが、その時必ず悩むことは「色々なアイデアが出て、取捨選択に困る」ということなのです。「普通はアイデアが出なくて困るんじゃないの?」という声が聞こえてきそうですが、香月個人としてはむしろ逆です。私がRJCで出す企画というのは、殆どがある瞬間、パッとひらめいたものばかりです。ウンウン呻って、苦渋の末に絞り出したものは多分なかったと思います。また、RJCの企画会議の時も、他愛のない話からポンと企画が生まれたりする事もあります。企画やアイデアというのは案外そういうものなのです。

企画のアウトラインが決まると、それに具体的な内容を肉付けしていきます。この時に「取捨選択に困る」のです。あれもこれもと内容を詰め込みすぎると、番組は得てしてつまらなくなります。また、内容に凝りすぎたり、複雑すぎたりすると当初イメージしていたものとはかけ離れたものになる危険性があります。要はどれだけ番組をスマートに出来るかということですが、これが難しい。考えた末に、例えば2つのコーナーを1つにまとめたり、あるいは思い切って切り捨てたりという作業を行います。考えてみると、番組作り、企画作りというのは文章を書くということと「無駄を省く」という点で、共通項がありますね。あるいは「物事を創造する」という行為全てに当てはまる共通項かもしれません。

こうして生まれた企画は企画会議にかけられ、ゴーサインが出たら番組収録となります。番組収録についての話は、また次回。

 

テレビが壊れた(1999年10月7日掲載)
今まで使っていた、自分の部屋にあるテレビデオが、何の予兆もなく壊れてしまった。細かく言えばテレビの部分ではなくて、ビデオの方の故障−−「取り出し」ボタンを押してもテープがでなくなってしまうという症状だが、そんなときでもテレビごと修理に出さないといけないのはテレビデオの欠点である。

ひょっとすると自分で直せるかも(=タダで済むかも)、と思って裏蓋を開けてみた。そして基盤を外してみてビデオの部品を抜き取った。だがその部品を見て「……ああ、こりゃダメだわ」と一瞬で悟った。モーターからつながっているプーリーのベルトが切れてしまっていたからである。部品自体が壊れていてはいかんともしがたい。仕方がない、修理に出すか。

家電屋に行って修理を依頼すると「メーカーに送るので時間が掛かります。修理の前に見積もりをご連絡します」とのこと。要するに、しばらく自分用のテレビなしの生活が始まるということである。テレビが見られないから辛い、というわけではない。せっかく予約して買った「バイオハザード3」ができない、せっかく予約して買った「モンティパイソン」のビデオが見られない、などといった問題が生じてしまうのが辛い、のである。率直に言って、テレビは殆ど見ていないので別段問題はないのだが、それでもテレビがないだけで、こんなに不便なものになるのだと痛感した。

後日「修理費は15,000円ほどになりますが……」との連絡。それだけの金額を払うのだったら、新しく買うほうがいい。修理をキャンセルして「テレビ」と「ビデオ」を別々に購入したのだった。

 

ラジオについて考えた(1999年10月29日掲載)
なぜラジオという媒体に心を惹かれたのかと、ふと考えてみた。私がラジオを本格的に聞き始めたのは、中学生になってからだと記憶している。それまではずっと、テレビ一辺倒だったのは確かだ。中学生になって、なんだかんだで夜更かしをするようになって、ある時FMを聞いてみると(田舎だったのでAMの受信状態は最悪。一番鮮明に聞こえたのが隣の県のFM局だった)「言葉」で私に直接訴えかける人々がラジオの向こう側にいた。それが「ディスクジョッキー」であったのだ。この言葉が生み出す新鮮な経験は、一瞬のうちに私を虜にしたのである。

以来、私はラジオにのめり込む日々が続く。テレビを見る位だったらラジオを聞いていた方がいいと思うようにもなった。そして、言葉で物を創り出すという作業に魅力を感じ、中学、高校、大学と何かしらの形で放送系の部活動に籍を置いた。残念ながら、今のところ、言葉で物を創り出すという仕事を生業にはしていないが、RJCでは思う存分、その仕事を満喫していると私は思っている。

何が私をそうさせたのか。答は一言で言ってしまえば「ラジオの魅力」である。では、ラジオの魅力とは何か。なぜラジオという媒体に心を惹かれたのか。それは「創造力」という隙間があるからだと思う。テレビでパッと映像で表現すればいいことを、ラジオでは「言葉」を使ってわざわざ説明する。説明するという言い方では語弊があるかもしれない。ラジオは「言葉」を使って、創造力をほど良く刺激すると言った方が正しいだろうか。そういう作用が有効に働く隙間があるから、ラジオは成り立って行くのではないだろうか。そもそもラジオが言葉を伝えるだけの機械だったら、とっくの昔にこの世から消えてなくなっているはずだ。

そういう隙間があるからこそのラジオ。これを0か1か、イエスかノーかで判断する、デジタルの世界の上で表現するというのは、実は大胆なことなのかもしれない。逆に、このインターネットラジオという企みは、今の人間に欠けている部分を補うことができるのではないかと思っている今日この頃である。

だって……デジタルだけの毎日じゃ、つまらないでしょ?

 

ライブ盤(1999年11月24日掲載)
最近、何枚か立て続けに「ライブ盤」のCDを買った。誰のライブ、というわけではない。ただ単純に「ライブ盤」と名前の付いたCDを手当たり次第に買っただけである。

最初に買ったライブ盤はカーメン・マクレエという女性ジャズシンガーと、ピアニスト、デイブ・ブルーベックがニューヨークで共演したライブの模様を録音したアルバム『テイク・ファイブ』(表題曲は多分イントロを聴くと十中八九、ああこの曲か! とわかる有名ナンバーのボーカルバージョン)。本当に何気なく買ったこの一枚が、私をすっかりライブ盤の虜にしてしまったのである。

CDを再生すると、当たり前の話だが歌手が歌を歌い、奏者が楽器を奏でる。普通のCDだったら音の要素はこれだけである。しかし、ライブ盤は違う。ジッと音の背景に耳を澄ませてみると……聞こえてくるのである。その会場にいる観客の話し声(無論、何を言っているかまでは聞き取れないが)、恐らくはワイングラスであろうガラス同士の触れあう音、そして何か美味しいものが盛りつけられているに違いない皿とフォークか何かがぶつかる音、等々。いつしかそっちの方に気を取られてしまっている自分に気づく。

ともすれば「雑音」ともなる音の要素をも、楽曲が上手く包み込んで一つの作品として仕上げ、そしてそれが、この上ない臨場感を演出する。今の工業製品みたいな音楽にはない暖かみを感じ取ったことが、私がライブ盤に夢中にさせた要因なのだろう。

 

携帯電話を買った(1999年12月14日掲載)
ついに携帯電話を購入してしまった。大学入学の時に上京して以来、私は移動端末の類を拒絶し続けてきた。ポケットベルしかり、phsしかり、携帯電話しかり。友人、知人、親、親戚等々から「買え、買え」と言われても「絶対にやだ」の一点張りだったのである。そんな私が携帯電話を購入してしまった。

今まで、携帯電話を持っている人間のほとんどが良い印象ではなかった。例えば、電車の中で大声で話している人々、「えーっ、っていうかぁー」と未知の日本語で話す人々、「だから金返せって言ってるんだよ!」と街のど真ん中で金銭トラブルを繰り広げている人々……。いつしか私は「携帯電話を持っている人間は常識知らず」という固定観念を持つようになったのである。そして、同じ目で見られたくないと、携帯電話に拒絶反応を起こしていた。

携帯電話を持たない理由は他にもある。人とワイワイやるのも大好きだが、一人で過ごしたいときはずっと一人でいたいタイプなので、それを電話で邪魔されたくないという理由や、根本的に「電話恐怖症」であるなど、なぜ携帯電話を買ったのか自分でも不思議なくらいである。

しかし、買ってしまえばそれもいつかは慣れとなり、慣れてしまえばそれはいつかは便利な物となる。とりあえずは、今までの固定観念を捨てるくらいの価値はあるかと思っているし、電話恐怖症もいつかは克服できるとも思っている。

しかし、慣れたからといっても今まで「常識知らず」と思っていた人間にはなりたくない。せっかくスマートな道具を手に入れたのだから、スマートに使いこなしたいものだ。
日記(2000年2月18日掲載)
最近、日記を付け始めた。日記自体を書き始めるのはもう何十回目かである。問題は、そう。それが3日坊主で終わってしまうということなのである。

日記と言えば、幼稚園や小学校の夏休みの宿題の定番である「絵日記」。私はそれが苦痛でたまらなかった。一日の終わりになぜ、絵まで描いて自分の生活の報告書を書かなきゃならんのか。納得できん! ……とまあ、小生意気なガキだった。

第一、普通日記を書かない人間がいきなり夏休み期間は日記を書け、といわれても無理な話であって、その後も毎年のように「絵日記」あるいは「日記」というものは私を最も苦しめさせるものとなった(自由研究は毎日の日課となっていたのにだ)。一度「書かない」という実力行使に出たこともあるが、そのときは先生から思いっきりぶっ飛ばされた。そんなこんなで私は日記を書く、という行為が何よりも苦痛、という人間になってしまった。

だが、他人の日記ほど面白いものはない。それ自体が文学の1ジャンルを形成しているぐらいである。日記を見れば、その著者の人間性、考え方、果ては晩飯のおかずに至るまで垣間見られる。これは何というか、ちょっとした覗き見感覚というか「家政婦は見た!」の市原悦子の感覚というか、とにかく「あら、ちょっと得したわ」的感覚なのである。

で、最近、得させる側に立つべく、日記を付け始めた。要するに自分のホームページに載せるコンテンツとしての日記だ。最初は池波正太郎のように朝昼晩の食事メニューを書こうかと思ったが、結局はオーソドックスなものに落ち着いた。現在のところ途中抜けた日があるものの、18日間続いている。これは自分の意志で香月良太が書いた日記としては、継続日数新記録である。近日公開予定、乞うご期待! ……の予定。
日記、その後(2000年4月4日掲載)
前回の香月コラムで「自分のホームページのために日記をしたためている」と書きましたが、この度その日記がめでたく公開となりました( http://www3.justnet.ne.jp/~katsuki/ )。今のところブランクがあれど、自分でも驚くぐらい長期にわたって更新を続けております。

なぜまた日記を? という事を前回書いていなかったと思うのですが、理由の一つは「コンテンツ作るのに一番手っ取り早いから」。今まで変に凝ったページを作っていたがために自分の身が忙しくなってきたら更新が滞っていたのですが、日記ならとりあえず文章をチョイチョイと書けばすぐに更新ができる、と計算したわけです。理由の二つ目。「本を読んで触発されたから」。その本は『すべてがEになる』。森博嗣さんという推理作家が自分のホームページに掲載した日記をまとめた本です。書店でパラパラとめくってみれば、これが軽快で面白い。どこのページから読んでみても興味深い内容です。プロが書いているからかもしれませんが「日記」イコール「365篇の短編集」として成立しているのが見事です。是非ご一読ください。

で、自分の日記を見てみると……文章的にはまだまだ稚拙ですね。しかし、書いているうちに気づいたこと。他人の日記だけでなく、自分の日記も読み返してみると結構面白い……。

 

同姓同名(2000年4月25日掲載)
香月良太。言うまでもなくこれは私の本名である。「香月」というのは九州の北部に多い名前で、それこそ佐賀県や福岡県ではポピュラーな名字である。ただ「香月」と書いて「かつき」と読ませるのは関東では珍しいらしく、いつも「かづき」や「こうづき」と読まれることが多い。しかし、私の場合は「かつき」と読むのが正しい(はずだ)。

「良太」というのは母親と祖母が杉良太郎の「良太郎」の部分を拝借して、語呂が悪いからと「郎」を消したという至って単純な名前である。単純な名前ではあるが、字画は良いようで、漢字にしたときの名字とのバランスもなかなかだと名付け親は自画自賛している。

このコラムをお読みの皆さんの中には「普遍的な名前で、同姓同名が多すぎて困っちゃう」という経験がある方がひょっとしたらいらっしゃるかもしれない。しかし、私の名前は名字が少しだけ変わっているだけになかなか同姓同名さんとは出合う機会がなかった。

ところが、である。今年春のセンバツ高校野球の「注目度ナンバー1ピッチャー」の名前を見て驚いた。

「福岡県立柳川高校・香月良太選手(3年)」

まったくの同姓同名。しかもかなりの有名人。しかも運動神経ゼロの香月良太とは正反対の剛腕ピッチャー、人呼んで「九州のドクターK」!

実際にピッチングを見てまた驚いた。前評判に恥じず毎試合2ケタ奪三振という活躍ぶり。残念ながら準々決勝の智弁和歌山戦で敗れてしまったが、その試合も素晴らしいピッチングだった。ただ、テレビから「ピッチャー香月良太……」「香月第1球投げた!」「香月良太投手が……」などといった言葉が聞こえてくるたびにちょっとむずがゆいような、うれしいような、何か妙な気分だったのは仕方がないところか。

香月投手が活躍したおかげで「かつき」のアクセントがだいたい明らかになった。私と話す人の約半数が「香月」を「かつ」と尻高型アクセント、つまり「き」の部分にアクセントをつけているのだが、私は「つき」と頭高アクセントが正しいとずっと信じてきた。今回、テレビ放送を見ていると、NHKをはじめ、だいたいの場合「つき」と発音していたので、今後「つき」を正式なアクセントとして広めていきたいと思う。

ということで、リスナーの皆さん。これからも「つきりょうた」をどうぞよろしく。

 

食べる時の作法(2000年5月15日掲載)
……といっても、別に堅苦しい話をしようと言うわけではないのですが。

牛丼や天丼といった「丼もの」を食べさせる店に行くと、丼をテーブルに置いたまま、口を近づけて食べる人を最近よく見ます。しかも、それがとても気になる。雑誌や新聞を片手にいわゆる「犬食い」をする人もいれば、最初から最後まで、テーブルの上に置いた丼の縁から口を話さず食べる人もいます。

「作法」といいますが、では、丼に作法があるのかということになります。「丼」は要するに「ぶっかけ飯」みたいなものですから、それ自体は砕けた食べ物ではあります。しかし、だからといって犬食いはどうかと思うんですが……。

同じ丼でも、犬食いでボソボソ食べるよりも、丼を持って掻き込む方が数倍おいしそうに食べているように見えませんか。たしかに、掻き込むというのも本来の意味での作法とは違うと思いますが、「丼」から受けるイメージからすればガツガツと掻き込む方がいかにも旨そうに見えませんか。私が思うに、食べ物の作法というのは「おいしい物はおいしく、おいしそうに食べる」と言うことに尽きると思います。目の前の食べ物に素直に反応することこそが作法であるかと思いますが、いかがでしょうか。

 

ウルティマ・オンライン(2001年5月1日掲載)
最近、ネットワークゲームというものに手を出し始めまして、そのきっかけになったのが、かの有名な「ウルティマ・オンライン」(UO)なのであります。

このUO、全世界に数万人のプレイヤーが存在し、冒険を繰り広げている訳ですが、普通のRPGに比べて自由度がかなり高くなっています。RPGらしく、冒険者としてモンスターと戦うことはもちろん、その冒険者に武器や防具、道具を売って生計を立てることも、あるいは泥棒、殺人者として生きることもできる、要するに「目的はプレイヤー自身が決める」ゲームなのです。

そこで大事になってくるのが、他のプレイヤーとのコミュニケーション。会話によって冒険を共にすることも(パーティというやつですね)、商売をすることも、戦いを挑むことも可能なのです。あるいは、モンスターと戦うよりも重要な要素が会話なのかもしれません。普通RPGと呼ばれている「ドラクエ」や「FF」よりも、もっと本来のRPG −仮想の自分の役割を演じて、ゲームを進めていく− に近いものであるといえるでしょう。

とはいえ、私はまだまだ初心者。人とコミュニケーションを楽しむ余裕がまだありません。リスナーの中でUOプレイヤーの方がいましたら、YamatoシャードのRyotaというメイス戦士を見かけましたら声をお掛けください。いつもトランメルにいるので、PKしようとしても無理です……って、楽屋落ちじゃないか。

 

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